四十代の頃、一度だけギックリ腰をやったことがある。それまで腰痛というものを全く経験したことがなかったので、「なんだ、この不条理な痛みは?」と衝撃だった。寝返り打てない、起き上がれない、歩けない、くしゃみもできない。しかも、治ってしまうと、綺麗サッパリ忘れてしまい、あの痛みを脳内で再現できない。不条理だ。
更に不思議なのは、ギックリ腰のあいだだけ、突然甘党になったことだ。なぜか、「腰、痛い」と呟くと、「ロールケーキ食べたい」という衝動に脳内で変換されるのである。私は専ら辛党で、コース料理のデザートの代わりに、いつもビールや食後酒を貰っていたほど。なのに、ギックリ腰のあいだだけ、甘党。しかもロールケーキ限定。脂汗をかき、よちよち歩きつつ、近所の洋菓子店に行き、電車に乗ってデパ地下に行く。特定のロールケーキではなく、毎回、異なる店のものを一本購入。それを毎食後、三分の一本くらい食べる。手帳に店の名前を記録していたのだが、痛みが引くまでの約三週間のあいだ、確か九本ロールケーキを買って食べた。何かの代償行為だったのは明らかで、その証拠に痛みが消えると、全く食べたくなくなってしまったのだ。人間の身体というのは本当に不思議だ。誰か、この現象のメカニズムを教えてほしい。
恩田 陸
小説家。1964年、宮城県出身。2017年『蜜蜂と遠雷』(幻冬社)で直木賞と本屋大賞を受賞。著書に『鈍色幻視行』、『夜果つるところ』(集英社)、『spring』(筑摩書房)など。
※東北大学病院広報誌「hesso」44号(2024年6月30日発行)より転載